《真珠の耳飾りの少女》
特定の人物の肖像ではなく、「トローニー」と呼ばれる、想像上の人物を描いた絵です。異国風の衣装にターバンを巻き、耳には現実にはありえないほど大きな真珠。マウリッツハイス美術館は、この絵をフェルメールでもっとも有名な作品としています。
ヨハネス・フェルメール(1632–1675)
デルフトに生まれ、デルフトで没したオランダの画家。やわらかな光に満ちた室内画で知られます。一枚に長い時間をかけたため、現存する作品は三十数点しかありません。
かたちの由来
マイケル・バルナートのブローチには、一枚の絵や、歴史のひとつの場面から生まれたものがあります。それぞれのかたちのもとになった作品と物語を、美術館の解説などで確かめたことだけで紹介します。
名画から
特定の人物の肖像ではなく、「トローニー」と呼ばれる、想像上の人物を描いた絵です。異国風の衣装にターバンを巻き、耳には現実にはありえないほど大きな真珠。マウリッツハイス美術館は、この絵をフェルメールでもっとも有名な作品としています。
ヨハネス・フェルメール(1632–1675)
デルフトに生まれ、デルフトで没したオランダの画家。やわらかな光に満ちた室内画で知られます。一枚に長い時間をかけたため、現存する作品は三十数点しかありません。
白い漆喰の壁を背に、餌箱にとまるゴシキヒワ。足は細い鎖でつながれています。17世紀のオランダでは、鎖のついた小さな桶で水を汲み上げる芸を仕込まれ、ペットとして好まれた鳥でした。オランダ語の題名《Het puttertje》も、この芸にちなむ呼び名です。
筆の跡が一つひとつ見分けられるほど、力強く描かれています。黒い翼に置いた黄色の羽は、絵具を筆の柄の先で引っかき、下の黒をのぞかせたもの。師のレンブラントから学んだ技法です。
少し下から見上げる角度で描かれていて、高いところに取り付けるものだったとみられます。本物の鳥がいるように見せる、だまし絵だったという説もあります。画面の下には「C FABRITIVS 1654」の署名。フェルメールの再発見で知られるフランスの批評家トレ=ビュルガーの手を経て、1896年にマウリッツハイス美術館に入りました。
カレル・ファブリティウス(1622–1654)
レンブラントの弟子のなかでも、もっとも才能に恵まれたひとりとされる画家。1650年にデルフトへ移ると色づかいが明るくなり、わずかな灰色と黄土色で、静かな空気を描きました。マウリッツハイス美術館は、その作風がフェルメールに影響を与えたと考えています。
1654年10月12日、デルフトの火薬庫が爆発し、町の3分の1が壊れました。近くにあったアトリエも吹き飛び、ファブリティウスは救い出されたものの、まもなく亡くなります。32歳の若さでした。現存する作品はわずか十数点です。
1667年に出たデルフトの町の記録には、ファブリティウスを不死鳥にたとえ、その炎の中からフェルメールが現れて見事にその道をたどった、と詠む詩が載っています。
ゴッホは、南フランス・アルルで借りた「黄色い家」を、画家たちがともに暮らし、刺激しあう場所にしようと考えていました。画家ポール・ゴーギャンが来ると知って描いたのが、花瓶のひまわりです。そのうち2点は、ゴーギャンが使う客間に飾られました。ゴーギャンはこの家で2か月あまりをともに過ごし、ひまわりを描くゴッホの姿を絵に残しています。
花瓶のひまわりは、1888年8月に4点、翌1889年1月に3点、あわせて7点が描かれました。そのうち5点が、いまは5つの美術館に1点ずつあります。ほかの2点のうち1点は個人の所蔵。もう1点は大正時代に日本へ渡りました。白樺派の武者小路実篤らが構想した美術館のために、実業家の山本顧彌太が買い求めたものです。美術館の計画は実らず、絵は芦屋の山本邸に飾られていましたが、1945年8月6日の空襲で焼失しました。
ゴッホは手紙の中で、ひまわりの絵は感謝を表すものだと書いています。1890年にゴッホが亡くなったとき、友人たちはひまわりを手に葬儀に集まりました。ひまわりは、本人が望んだとおり、ゴッホを表す花になりました。
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853–1890)
オランダ南部ズンデルト生まれ。画商、教師、伝道師と職を変えたのち、27歳で画家の道を選びました。パリで印象派の明るい色に出会い、1888年に南フランスのアルルへ。《ひまわり》の連作はこの地で生まれました。1890年、37歳で亡くなります。
渦巻きの線に沿って、蝶が少しずつ姿を変えながら中心へ向かっていく版画です。デン・ハーグのエッシャー美術館は、蝶を一匹ずつ違う姿に描き分けることで、画面に表情を持たせようとした作品だと解説しています。
M.C.エッシャー(1898–1972)
オランダの版画家。形が少しずつ別の形へ移り変わっていく作品で知られます。
ファッションとアートの関係を主題にした展覧会のため、美術作品に着想を得たドレスを6着つくりました。そのうちの1着です。会場の美術館は、ピエト・モンドリアンの作品を世界でもっとも多く所蔵しています(約300点)。単純な線と原色は、オランダのデザインの伝統そのもの。マイケルはそう考えています。
ピエト・モンドリアン(1872–1944)
オランダの画家。風景画から出発し、水平と垂直の線と、赤・青・黄の三原色による抽象へと進みました。この画風は「新造形主義」と呼ばれます。
歴史と文化から
17世紀の初め、オランダ東インド会社が東洋の磁器をオランダに運ぶようになりました。デルフト焼きは、その代わりとして発展した陶器です。中国の内乱で磁器の生産が止まると、デルフトの陶工たちは、その様式を陶器でまねて描きました。
17世紀に開かれたデルフトの窯のうち、いまも続くのは、1653年創業のデ・ポルセレイネ・フレス(現在のロイヤル・デルフト)だけです。
1930年代、サルバドール・ダリは、電話の受話器の代わりにロブスターを載せた《ロブスター電話》をつくりました。ロンドンのテートも1点(1938年)を所蔵しています。
1937年、パリの服飾デザイナー、エルザ・スキャパレッリはダリと組み、白いシルク・オーガンザのドレスに、ダリが描いたロブスターをプリントしました。のちにウィンザー公爵夫人となるウォリス・シンプソンが嫁入り支度に選んだことで、広く知られるようになります。このドレスは、フィラデルフィア美術館が所蔵しています。
ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館には、1760年ごろの、ダイヤモンドのリボン3点組が残っています。同館は、大きなひとつを胸元に、小さなふたつを両肩に着けたと考えています。
アムステルダム国立美術館のリボン形のブローチ(1784年、銀とダイヤモンド)は、もとはブローチではありませんでした。宝石商アドリアヌス・ステーンが、アムステルダムの教会の聖体顕示台の飾りとしてつくったものです。
フランス南東部のアノネーで製紙業を営む家に生まれた、ジョゼフ=ミシェルとジャック=エティエンヌのモンゴルフィエ兄弟。1783年6月4日、故郷アノネーで、人を乗せない熱気球を飛ばす公開実験に成功しました。
同じ年の11月21日、兄弟の気球にピラートル・ド・ロジエとダルランド侯爵が乗り込み、パリのブローニュの森から飛び立ちます。人を乗せた気球が、初めて綱につながれずに空を飛んだ日でした。
フランスは気球に夢中になりました。セーヴルの磁器窯は気球の場面を描いた茶器を作り、扇や嗅ぎたばこ入れにも気球が描かれ、スカートや髪型にまで気球が現れます。ジュイのオーベルカンフ工場も、1784年に気球を描いたプリント生地を作っています。
シナモン、ジンジャー、クローブなどの香辛料を練り込んだ焼き菓子。彫刻をほどこした木の型に生地を押しつけて、形と模様を付けます。オランダやベルギーでは、聖ニコラウス(シンタクラース)の祝いと結びついた菓子です。
菓子型には、さまざまな図柄が彫られてきました。ライデンのラーケンハル博物館が所蔵する18世紀後半の型にも、帆船などと並んで風車が彫られています。
ろくろで挽いて色を塗った木のくるみ割り人形は、19世紀後半、ドイツ東部エルツ山地の木工の村ザイフェンの工房で作られたのが始まりとされます。王さまや兵隊、将軍の姿をした人形に、くるみを割らせる仕掛けです。いまもエルツ山地を代表する工芸品です。
この人形を世界に広めたのが、E.T.A.ホフマンの物語『くるみ割り人形とねずみの王様』をもとにした、チャイコフスキーのバレエ《くるみ割り人形》。1892年12月、ロシア・サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で初演されました。物語は、クリスマス・イヴに始まります。
1934〜35年、サルバドール・ダリは、ハリウッドの女優メイ・ウエストの顔を、そのまま部屋に見立てた絵を描きました。唇は、ソファです。この唇は、ダリのパトロンだったイギリスの収集家エドワード・ジェームズのために、ロンドンの家具工房で本物のソファとして作られました。そのうちの1脚を、オランダ・ロッテルダムのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館が所蔵しています。
1653年、ベルギーのトゥルネーで、フランク王国最初の王朝、メロヴィング朝の王キルデリク1世の墓が見つかりました。ガーネットをはめた金の装身具が出土し、それが「ミツバチ」と呼ばれました。
1804年、皇帝となったナポレオンは、新しい帝政の印のひとつに、このミツバチを取り入れます。12月2日の戴冠式では、王家の印だった百合の花に代えて衣装や幕にミツバチを配し、皇帝のマントは金のミツバチを散らした緋色のビロードでした。レジオン・ドヌール勲章の高位の首飾りにも、星とミツバチが交互に並びます。
赤・青・緑・黄で、様式化した花を描いた陶器の柄。いま知られている形は、19世紀、オランダ南部マーストリヒトのペトルス・レグーの窯で生まれました。イギリスから職人と材料を入れて大量生産した窯で、図案も当時のイギリスやスコットランドの花柄の陶器に倣ったとみられます。花は大きく単純にされ、数筆で描けるように整えられました。
オランダの柄として親しまれてきましたが、1969年に柄の権利がベルギーのボッホ社に移り、以後はベルギーで作られるようになりました。